(手記はここで途切れている)

わたしの ぼうけんは これで おわってしまった

パイディアのルドゥス以外への発展可能性

前置き

 カイヨワの『遊びと人間』では、かの有名な4分類の他に、パイディアとルドゥスの軸が紹介されている。4分類とは独立の軸で、例えばルドゥス寄りのアゴン、パイディア的なイリンクス……といったように用いられている。

 

 パイディアとは遊びの衝動のようなもので、幼少期から見られる。遊びの原初的な原動力であるとされ、動かしたい、触りたい、痛みを感じたい、挑戦したい……といった原始的な欲望が元になっている。
 これに対しルドゥスとは、パイディアに制限を加えて形式化し、目標に対して取り組む姿勢を指す。アゴンが競争相手に打ち勝つ態度を指すのに対し、ルドゥスは相手の有無に関わらずルール内でいかに自分の力を発揮できるか、自分の能力のある一側面だけを切り取ったそれをいかに伸ばせるか、に焦点を当てる。人間の成長過程においては、ある程度大人にならないとルドゥスが出現しないような書き方もされている。

 

 ここで興味深いのが、ルドゥスはあくまでパイディアの成長した可能性の一つであるという点だ。実際にカイヨワは「玩」の概念に対し述べている中で、パイディアのもう一つの可能性として「夢想」を挙げている。
 夢想とは精神的な放心を目指すこととされ、平静や忍耐が求められる。例に挙げられている通り、瞑想が典型例だろう*1

 

本題

 さて本題。パイディアはルドゥスにも夢想にも成長しうるわけだが*2、他の可能性も考えられるだろう。
 ということで、どのような成長の可能性があるのか、考えてみたい。

 パイディアに何らかの制限を加えることで、少なくともある遊びとして名付けられるような形式化が起きるはずであると仮定し、そのような方向性を考えてみようと思う
*3

 


①(不可逆的な結果に対する)責任*4

 パイディアの中には破壊衝動が含まれるが、この方面に極端に傾く可能性があるのではないだろうか。
 単に破壊するだけでなく、破壊した結果を受け入れる姿勢。不可逆的な選択に迫られた時に、きちんと不可逆であることを理解した上でなお決断する姿勢。それが不可逆的な結果に対する責任(の姿勢)だ。
 ボードゲームでは『Risk: Legacy』が典型的な例だろう(未プレイ)。親しみ深い例だと『ドラゴンクエスト天空の花嫁』での嫁をどちらにするかは(リセットしたりセーブを分けたりしない限り)不可逆的であり、これにあたるだろう。ナラティブとの相性が良いのかもしれない。
 また、『SUPER HOT VR』での自殺表現(VRで自身のこめかみに銃を当てて引き金を引く)も初プレイ時の感覚としては不可逆的な命の放棄だろうし、こういった引き返せないかもしれない不安との戦いに惹かれる人も少なくないだろう。死や自傷行為の表現との相性もかなり良いのではないだろうか*5


②称賛獲得

 何かを行った結果として称賛を得たい、という欲求はパイディアに含まれるか怪しい。行為そのものをメタ的に捉えているし、その行為に称賛という外発的な報酬が与えられるため、立場によっては遊びとも呼べないかもしれない*6。ただ、称賛獲得を「1つの」目標に据えて遊ぶ態度はある程度存在しうるだろう。ある種アゴン的な態度も含まれるだろうが*7、それとは別としてもありえる態度ではないだろうか。

 RTAのようなスーパープレイや"早解き"、実況配信などはこの軸が分かりやすい例だろう。一方では自己研鑽に励み自分の限界に挑戦するだけの(ある意味でルドゥス的な)態度があり、その一方ではゲームプレイを称賛されることに喜びを感じ、より観客の求めるプレイを見せたいと思って遊ぶ態度がありうる。ゲームプレイ自体を楽しみつつもプレイを一種の見世物とすることを許さないか、むしろ歓迎するかの違いであると言えるだろう。

 パイディアが元々どちらなのかは人によって意見の分かれそうなところでもあるが、自分自身としては個人的な楽しみ、つまり前者が原初形態であったと考えている。純粋にプレイしていた中、称賛を得られる場合の存在に気づき、後者の態度へと移行していくと考えている*8

 称賛獲得を目的にするようなプレイを志向すると、観客の求めるプレイに囚われるようになる。これが、個人的な楽しみの遊び(=ここで言うパイディア)への制限として機能するだろう。

 

③独自性の発揮

 クリエイティビティを発揮したい、オリジナリティーのあるものを創り出したいという欲求の軸がこれだ。②の称賛獲得欲求とも共通する部分があるが、こちらは人に認められるかはともかく自分らしさを表現したいという点で異なる。

 この例としては『どうぶつの森』シリーズが適切だろう。仮に友達や家族と遊ぶのではなく、ソロプレイを楽しむ場合でも、プレイヤー自身の好みを反映させたファッションやインテリアを作りたいという態度でのプレイが生まれる。もちろんFPS・TPSのようなアクションゲームや、RPGやストラテジーゲームのような頭脳派のゲームでも、自分らしいプレイングや戦術を模索して自分のものにしたいと思うことはあるだろう。

 『どうぶつの森』の例を挙げたことから分かるように、ミミクリ(模擬)と関連の深い軸ではある*9。しかし個人的な考えとしては、ミミクリを伴う必要はないと思う。確かに先ほどのプレイング・戦術ですら、「アルセーヌ・ルパンのような鮮やかな手口」「諸葛孔明のような高度な戦術」といった(独自性を出しつつの)ミミクリは可能であり、無意識にそういった想定はされているのかもしれない。しかしもっとアブストラクトなゲーム、例えば『テトリス』において他プレイヤーのプレイスタイルを全く知らなければ、他者や世界との比較を経るミミクリを介しなくとも、自分ならではのプレイをすることは*10可能だろう。

 

おわりに

 ということで、3つの方向性の軸を考えてみた。4分類とそれぞれの軸がどう関係するかを次の記事で書ければと思う。

 

(書き上がればここにその記事へのリンクが載る予定)

続き↓

imashin0402.hatenablog.com

 

*1:デジタルゲームで言えば『Mountain』や『Getting Over It』などをプレイするときの態度は夢想に近いのではないだろうか

*2:もちろんパイディアのままである場合もある

*3:またカイヨワが主張するように、パイディアは幼少期から見られるのに対し、ルドゥスは(恐らく夢想も)ある程度の年齢を要する。よってパイディアの他の方向性も、子どもの頃にはあまり見られない方が理論的に統一されるだろう。

*4:ギリシャ語を借りてエントロピーとか言おうと思ったけど余計に混乱を招くのでやめた

*5:ただしこの例のような過激なものは表現規制の波に煽られるので難しいところ。ちなみに『SUPER HOT VR』の当該シーンをプレイする前に修正されてしまったので、この辺は大いに想像が入っている。

*6:カイヨワの定義には非生産性が入っているので、財産や富を生み出すとアウトではある。とはいえ称賛を財産とみなすかは人によるし、財産の移動が起きるだけで生産が起きないとする見方もある。

*7:他プレイヤーより凄いプレイをした方が称賛を得やすいため

*8:子どもの頃でも称賛を求めることはあるだろうが、初めから称賛を得る目的で遊ぶというより、遊んだ結果を誇らしげに報告する方が自然な流れではないだろうか

*9:ビデオゲームの美学』第6章で述べられている語用法にしたがえば、ミミクリ型のプレイと言うよりも自己関与的なプレイだと言った方が良いだろうが

*10:それが本当に自分ならではのものなのか、一般的なプレイとの差異は本当にはどの程度あるのかはさておき